脈絡

読み難い

人間失格の話

 この頃太宰治のことが好きで、すこしすこし読んでいたりするのだけれど、その人間失格というはなしの言葉の端々になんとなく魅力のようなものを感じた気がして本屋へ赴いて買ってきた。なぜかわからないけれど最近文章を読むのが難しいことになってしまっていて、とくに太宰治の文章などはまた回りくどくなかなか一文が終わらないから所々流し読みしながらとりあえず一周してみた。

 

とてつもない、どうしようもない、なんと表せば良いのだろうか、まるでわたしが今まで散々わたしは人間でないように思われると言ったその言葉がもっと確実な言葉にされてこんなにも前に残されていたことに対する言いようのないような喜びのような悲しみのようなわけのわからない気持ちに襲われて、なんともナーヴァスになってしまった。一晩寝かしてみたけれど、なんということだろうか、やはりこの世界には人間と人間に擬態したなにか全くべつのものが存在するのではないだろうか、と思ってしまう。或いはこれは全てフィクションなのかもしれないけれど、少なからずわたしの感覚に近しいことを思いつくだけでもしていたのならそれは、喜んで良いのだろうか。なにもわからない、なにもわからないけれど、もしやこの話がこんなに有名なのなら果たして人間でないなにかが存在していても許してもらえるのではないだろうかとか、はたまた人々はこれは完全なるフィクションだと、或いは太宰治に限ったことだと、彼のような人に特別なことだから許されるのだと思っているのではないだろうかとか、いずれにしろわたしは掬われることなどたぶん無いのだろうと思って、またわけのわからない黒い影に胸をざくざく貫かれるわけだと。

 

同じ感覚をもつものが居たとしてもそれが救いになるわけでもなく。逆にそれらでコミュニティを作ってその中でまたマイノリティとなることの方が可能性が高い気がする、なぜならわたしは、人間のみならず、人間の形をした不幸な人々でさえも、すでに信用できないから、すでに上手くやれないから、すでにもう手遅れとわたし自身がそう思っているから、もうなにをしても意味をなさないのだと、どうしようもない、どうしようもない、そういうことばかりが頭の中を駆け回るのみでまともな思考さえ出来ないのだと、或いは太宰治のように文章を書けたりすれば若しくは許されるかもしれないがそれを継続できてその許されることによって集まるであろう注目に耐えられるかなど考えてしまえばそれに確信は持てないわけで。許される為に人間に自分を認知させて良く良く知らせる為に曝け出すなど、そんなことはわたしには出来ないのだ。

 

言うまでもなく、悲しい哉すでに自覚している、

人間、失格。

どうしてこうなったのかなど考えてみてもてんでわからないのです。

いつからずれたのかなど考えてみても、やはり、生まれたときそのときから人間のことなどなに一つわからなかったから、もともとそれが悪かったのだと、そのときから間違った存在だったのだと。

 

必ずしも太宰治と同じでなければならないわけではないし、寧ろそんなことは不可能だし、でもなんとなく似た方面の雰囲気を感じる気がする。解釈云々はわからないしこれからもたぶん変わっていくけれど、わたしが人間失格であることはおそらく一生付きまとってくるであろう、そうしてわたしはそれに耐え切れるはずがないから、なんらかの手段によって、さあ、消えてしまおうと、美しく、あとでひとがなんと言おうと、消えてしまおうと、そう確実に思ってしまうのです。