親の話
親、というか、もう何でもない、ただの人間のはなし。
たぶん、親のことが憎いんだと思う。知らないけど。
ひとつだけ親について覚えていること。
わたしが学校を辞めた時、父親は嘲るような目でこちらをちらりと見て、お前、中卒になるんだぞ? とだけ言った。
わたしが学校を辞めた時、母親は一通りヒステリックに嘆いたあと、これで貴方の中学からあの高校に推薦では入学できなくなるわ とだけ言った。
なにもかわっていない。というはなし
知らんうちにここまで来て知らんうちに暮らしを続けている、哀れな人間。人間なのかそうでないのかもよくわからないくらい。人間だなんて認めたくないけれど人間としてしかやっていけない、いや人間としてやっていけているというとそれは完璧な嘘になる、しかし人間に擬態しておかねば暮らしを続けることすらままならない。
働く。壊れる。さよなら。
当たり前のことがどうしてもできないのはわたしがきちがいだから。
大切な人を大事にしたいが故にわたしの世界から追い出そうとしたのに失敗。さよならを告げて離れればよかったのに真逆のことをつたえてしまう。怖くて仕方ないからそばに置いておく。いずれいなくなるのに。
膝を痛める。肉体の感覚。要らない。
楽になりたくて行ったはずの病院、行った日からずっと気持ちが駄目。薬のことを信用出来ないからたぶん効かない。眠れる眠れないというのは興味がない。喉の奥にある毛玉と酢の塊を溶かして欲しい。
なんにも信用ならない。終わっていくのをただ見つめる。19歳になりたくない。途方もない空間。時間。絶望はともだち、希望は敵。しあわせになんかなっちゃいけない。
ひちひちと雨の音。水。 水のようになれればいいな、なれないから諦めよう。所詮この世のなにも興味をそそらない、世間体の為に興味をつくる。関心をつくる。人間をつくる。わたしはどこにもいない、わたしの中にさえ居ない。箱庭の中の惨めなフィギュア。
悲観して可愛がられるのが大嫌い。興味のない人間の心がこちらに向くのを嫌悪する。私を見るな触るな関わるな。私など居ない。幻覚だ。
とかげ。
とかげの尻尾の方がわたしで、本体はとっくに何処かへ行ってしあわせに生き延びてるかもしれないな。救いにはならない。分かれた時から無関係。
知らん他人が定期的に連絡を遣す、向こうは知り合いだと思っているらしいが。他人だ。もうなにも知らないのにまだわたしのことを知っているつもりでいるらしい。わたしがとっくにどこかへ消えたこともわからないくせに。愚か。
あたたかみのなかにからだをなげだしてもまったくしあわせにはなれない。面倒な手続き。そうしないとつなぎとめておけないのか。いいように利用されて殺される。
死にはしないけど生きられないので。
詰んでる。知ってる。ずっとそうだからもう慣れた。失敗作。不良品。そういう名前をつけないと価値もうまれない。そういう価値しかうまない。
なにかをあいしたぶんしょうをかきたかった。
幸せとか、祈りとか、他力本願とかそういう話
ちょっと前に、お遍路に行こうと思い立った。
四国中を回って八十八か所のお寺を回収する、あれ。
それで四日前に出発して、三日目にやめると決めて、四日目に夜行バスに乗って隠れ家にとんぼ返りしてきた。
根性がないとか、自分で決めたことも完遂できないとかそういうのがあれば全部言えばいい、私はやめた、何もかもやめてしまった、ずっとそうやってきて、ずっと引きずってコンプレックスにして自分の居場所を自分で奪うような、そういう奴だ、私は。
あれ、一応なんか納札にお願い事みたいなのを書くところがあって、それを成就させるために回るらしい。はじめはお願いするようなことなんてなくて何も書かずにいたのだけれど、初日に三つ目のお寺に向かう前に物乞いの人につかまって、なんだかもう。いろいろ考えて、あぁ。わがままを言う子供みたいだ。ていうところだけはもしかしたら私と変わらないのかもしれないなんておもって、自分の暮らしと他人の暮らし、自分だけで自分の暮らしを支えてゆけないようなやつは、あるいは望んで支えてくれるひとがいるのなら別だろうけれど、その他例外もいっぱいあるのだろうけれど、とにかくそういう奴は物乞いとかするようなやつは、いや違うな、私も含めて、私はあの女と何ら変わらない、そういう奴は死んでおけばよいのだなんて思って、あぁ、しあわせになりたい。と思ったのだった。だからそれから願い事の欄にしあわせになりたいですて書くようにして、回っていたのだけれども、もう今の私の中では今の私にとってのしあわせってものがなんとなくわかっているから、お祈りが何か本当に無意味な、時間の無駄のような、そんなようなもののように思えて仕方がなくて、私にとってのしあわせは今すぐバスに乗って大都会のあの街へ行くことによってしか始まらないのに、私は四国の山の中で重い荷物を背負って、俺は何回回ったからどうだとか四国におけるお遍路さんの地位みたいな話だとかやたらと仲間になりたがる陳腐でくだらない人間どもの相手をしながら大して信じてもいなかった(そもそもわたしに神などいない)仏教のお寺を延々と回り続けることについて並々ならぬ疑問を持ってしまったのである。
そこで死のうとならなかったのは何か、良いのか悪いのかといわれるとどちらとも言い難いところではあるが、まあとりあえず突然大都会へ繰り出しても当てもなく彷徨うことになりかねないので準大都会の隠れ家に潜んでいるわけでなのでした。
あそこで人間が私にやさしくしてくれるのは私が白装束で杖を持って同行二人の白い鞄を持って歩いているから。それは私が一番しんどかった(かつ一番良かったわけでもあるのだけれど)時期の私に対する人間の態度に対してわたしがおもっていたことと何一つ変わらないわけで、それは結果的にわたしにとって金銭的或いはその他のところで得になったとしても不快なことだから、そういうことからは逃げてしまえばよい。
居場所がないなあ、と、しみじみとおもう。 自分で居場所を消していっている。
実家にはもう戻らないことにした。今いる隠れ家は、昔の身内の家だから、ご近所というややっこしいものから常に逃げているような錯覚のようなものを覚える。もともと街で知り合いに出会うのがとんでもなく恐ろしいと思うタイプなのだ。このまちのことを妙に知りすぎてしまった。顔を知られすぎてしまったと、思ってしまうのだった。去年も今年初めもお世話になったあの避難所は、それでも不特定多数の人間が怖くて行かれない。
全部自分のせいだったな。さあ死んどけ
どうしても連絡を取りたい人とどうしても連絡を取れないから泣くに泣けないのです。という言い訳じみた何か。一人で暮らしてゆけないのなら、二人にもなり切れないのなら、やはり方法は死ぬ以外にないという結論になるのだろうか、少なくとも私のちゃちな脳みそならそういう結論を出すだろう、それでもこうやっていられるのは、まだ二人になり切れるという望みを捨てていないからで、そんなものをいつまでも大事に持っているから今の私はこんなにも弱く成り下がってしまったのだろう。
今だってずっと布団に引きこもっていたのにこうやって外に出てネカフェに入り込んでいるのは電話で連絡がつかない人とTwitterで連絡を取れないか試すためで、あなたのためなら何でもできる、みたいな一見強さのようなそれは本当はただの弱さでしかなく、いやそれはこの世界で一番弱いものといっても過言ではきっとないだろう、つまりそんなものに支配されそれがわかっているにもかかわらず抜け出すことも能わずむしろいつまでもこのまま弱いままいれば守ってくれるのかもしれないなんてバラ色の背景にキラキラした光やシャボン玉が浮かぶような甘い期待、妄想、空想に浸っている私はクズだ。結論、それだ。クズに生きている価値はあるのか?
お前に守られる価値はない。世のクズにたとえそれがあったとしても、お前にはない。言い切ってやろう。私に価値などないのだ。死ねば良いのに。ああ。
簡単だ。ほんの数メートルの移動だ。
それができないのは、それをしたくないとどこかで思っているのは、それは私が弱いのと、やっぱりあのひとのせいなんだと思う。私を弄ぶのはやめてほしい、自分が傷つかないために私を傷つけさせないのはやめて、信じたいと思ったけれど、きっと、いつか、居なくなる。そうあるべきだし、そのほうが自然だ。
さて。結構話がそれた気もするけれど、元から何の話をすると決めてかかって書いているわけではないので良しとしようか。
終わり。
ふたり、ということの話
訳あってすきなひとと1か月くらい一緒に暮らしたのだけれど、その間に生活に於けるほぼすべてのことが「ふたり」のことになっていて ふたりでご飯作って食べてふたりで買い物に行きふたりで散歩してふたりでねむる、毎日を過ごしていると ふたりでなくなった時の対処のしようのなさが鋭く尖る。
もともとふたりは苦手だったから計3か月近くで暮らしてまだ一緒に居ても大丈夫なのはかなりすごいことだとおもう。
そろそろ離れておいた方がきっとこれからの為には良いんだろうという気もする。
今まで「ふたり」をやるための人間が居なかったから戸惑ってしまう。急にふたりをはじめてしまって、それでいろいろが狂ってしまった。
付き合っているとか、友達とか、そういう所謂一般の人間の言葉では表せないような関係で居ようと言った。のんびりいちゃいちゃする関係と名前をつけてくれました。
生活しながら、くっついてキスしてたまにセックスして、そういう穏やかな暮らしだった。
君のせいで死に損ねた。
君のせいで弱くなった。
どう責任取ってくれるの
思い出して泣いたりぼんやりしたり、大切に守りたいものが出来てしまったらもうおわり。
どうせ一生大事になんて出来ない、すぐ壊れるのだから傷付き傷付けるまえにさぁ離れて行こうな。
本当は怖くて心の奥で震えてるの知ってる ほかの人間よりましなのは認めるけどそれに騙されてるだけ。と、言ってみる。
所詮、人間。不意に虻を打ち殺す牛の尻尾を持ち合わせる。
とはいえまぁふたりというのもたのしかったね
珍しい経験だった。これからふたりが壊れるのをなにも出来ず眺めるのがかなしい。
ずっと変わらずに居たいと思うということはどんどん変わっていく現実になんとなく勘付いているから、みたいな台詞をどこかで見た気がする。
変わるのは受け入れような。変わりたいかどうかは別としてだけれど。
どうかこのままなにも変わりませんように。
変わることと、しあわせなことの話
死に損ねた。
言い方を変えると、生き延びた。
良かったのか悪かったのかは知らない。たった一言で死ねなかったとおもう。
ぼんやりと死ぬつもりでぼんやりと暮らしていたら破りたくない約束が出来てしまった、つまりは本気で死のうなんて思わなくなったのかもしれない
結果的にどんどん大事なものが増えてそれでも失ってしまえばきっと大したことのないもののはずで そんなものに固執するまでになったというのはどういうことなんだろう。
死ぬイメージがどんどん鮮明になってゆく。
衝撃、それから、さよなら。いや逆か。
ちいさなバイクを走らせながら、何度もその場面を描いている。いつだってやろうと思えば出来てしまうのだ。
それなのに死ななくても良いのかもしれないなんて思わせるのは、それはわたしの思い違い、である と、すこしおもう。
死ななくても良いんだよとは言われなかったな、そういえば。
抱きしめてくれるひとがあらわれて、いろいろ傷つけようとしてみたけれど効かなくて、今度はいろいろ預けてみたらちゃんと預かってくれたようにみえる。安心して良い気がしてしまった。
怖くて仕方ないのは変わらない。人間だ。
それでもすきで、会いたいとおもう。
なんにも変わらなくて良いやと思った瞬間があった。 しあわせなんだろうな。
変える気がなくなったら、また死にたくなるとおもう。のでまたすぐ死ななくてはならないね
悲しくも嬉しくもない、もともと決まっていたことのはず。
惰性で暮らすな。生きる勇気も死ぬ気力もない。
死ななくてはいけない、と、思わなくさせるのは、気力を奪うようなことみたいだ 原動力を
変なことだが死ぬ為に暮らしを続けている。
しあわせになったら、あとは死ぬしかすることがない気がする。わたしはしあわせになりたかったから、もう終わっても良い。ということにならないか。
こうやっていつまでも生きながらえるのだろうな。死にたいまま暮らすんだろう。救いようもない、哀れな人間。死ねば良いのに。
題をつける価値もない話
誰かの大切な人になんてなれるわけないし本当に大切な人になんて出会えるはずもないし絶対やり遂げたいことなんて有ってないのと同じだし食べられなくなったら悲しい食べ物とかどうせすぐ忘れるし さよならの言葉は誰にも届かなくていい
自分勝手という話
自分勝手である。 わたしは自分勝手だ。
と、いうことを少し前に気付かされた。
だからどうという話でもないのかもしれない。
気付いたからといってもう常に死にたい状態に落ち着きつつあるこのお気持ちが何とかなるわけでもなければ、あぁわたしは自分勝手だからどうしてもそれは変えなければならないとかそういうことを強く思うこともない。
申し訳なかったなあとは思う。
人間をとりあえず怖いものとして認識して始まる関係の中から怖くない人間を探してその中から大丈夫な人間を探す、ということをしています。
そういうことでなんだかごくまれにすごく大丈夫でしかも優しくしてくれる人間がいると嬉しくなってしまう(お前は後に裏切られる)(それさえ思い上がりでそもそもすべては私の思い違いでいずれそれに気付くというだけだ)。
なんだかよくわからない育ち方をしてきたようなので5才のままこの歳を迎えてしまったようです。
人間とのかかわり方が両極端である。
甘え方がよくわからなくて全く出来ない或いは度が過ぎる。
一般人なら普通に出来るんだろうなぁと思われることで首から下の全部の毛を一本ずつ抜かれるよりも嫌なことがありますか、わたしには有ります。
そういうのをうまく伝えられなくて何にも出来ない。
他人とは同じようになれないというのはわかっている、そうしてだからわたしが想像する『一般』とか『普通』とか『世間』とかってものが実際のそれらとは大きくかけ離れているものだということもようく理解しているつもりで、でもそれでもなんとか世界と対峙するにはわからないなりにそれを想像しないと始まらないのではなかろうか、とわたしは思うのである。
つまりなんだというのは、わたしが想像した実物とは違う世界について恐れている/怯えていることについてそれをナンセンスと一蹴されたことについて わたしはわたしの見ている世界から世界を想像し、それがわたしにとって恐ろしいものとなっているのだから世界はわたしにとって恐ろしいということは否応なく認められることなのではないのか、ということ。
わたしは自分で作り出した想像の世界に怯えているのではないと思う。恐ろしい想像の世界を作り出した現実の世界が恐ろしい。のだと。
……何に対する気持ちを書き出していたのだかわからなくなった。
でもわたしが怖いというものは怖いのである、誰がなんと言おうと怖いのである、そうしてそれが怖くないものだということに気が付いても急に身構えるのをやめることも出来ないのである。
はい次。
死にたい~と泣いたら少しは気持ちが楽になってもよいのでは? まあそんなことはわたしには良くわからないのだけれども。
死にたいと泣きついてもわたしのなかのしにたいは増える一方で分裂して向こうに行った死にたいは所在無さげにこっちを見てる。
本当に死にたい人は他人に死にたいなんて言わないんだよだから貴方は死にたいわけじゃないんじゃないのかといわれまして確かにそうなのかもしれないけれどまたこれもよく言われることですがやりたいことはどんどん口外していけということで なぜこれがその例に当てはまらないといえましょう?
日記を書き続けているのは惰性だと思う。
優しくしてほしいのは、死にたいのが決まっていてもせめてそいつが顔を出す時間を最小限にしておきたいから。
そうやって自分が死ぬのに都合が良いほうにばかり考えたいのは、理由がちょっとわかりませんねぇ。
わたしは死にたい。
わたしは死にたいと思っている。
わたしは死にたいと思っていると思っている。
わたしは死にたいと思っていると思っていると思っている。
わたしは死にたいと思っていると思っていると思っていると思っている。
さてどれが正解でしょう、或いはすべてでしょうか。
どうしたらよいのかは、いつでもわかりません。
次。
今朝起きたときに、起き上がれなかった。
ひっさしぶりだなあこれ。
それでも起きなければならないので起きてやること済まして移動を始めたけれど案の定駄目になったのでこうしてインターネットの世界に居るわけですが。
知っている町でも知らんところでも、とりあえず何にもない小さい部屋を借りて引きこもりたい。
冬ですね。去年の今頃もこんな感じだった気がする。
もうどこにも戻れないのは、そうわたしが決めたからです。
次。
いや、もういいです。
悲劇のヒロインになりたいだけじゃないのって、暮らしてて別々の人間に二回言われるような、そんなわたしです。自分を変えられるのは自分だけって、そんな子といわれても自分を変えたいのか変えたくないのかそもそもその『たい』って希望みたいなのがあるのかすらよくわからないようなわたしです。
うまいことさよならしようねぇなんていっても、結局は自分勝手な方法を取ることになりそうです。