脈絡

読み難い

約束の話

去年の今頃に、2年以内に死ぬことを決めた。

 

それで1年暮らしてきたのは、約束ごとがあったからだと思う たとえば同年に訪れた島を再訪するとか、そういうのだけれど そういう簡単なものがわたしの暮らしを繋いでいた。

 

 

いま 約束ごとが去年より増えたいま そんなのどうだって良いから死ぬ という気持ちになりました

 

供養

・今年約束を守って再訪した島でクリスマスと年越しをする(クリスマスケーキつくる)

・宿で会った人のやってる宿に泊まりにゆく

・今年上半期に住み込みで働いた島を再訪する

・宿で知り合った人々を訪ねてあるく

・実家に戻る

・元同僚と旅をする

・旅先でお世話になった宿のオーナーにお土産を買う

スマホ持ってないときにFacebookに友達申請くれた人を許可する

・旅先で会った地元同じ旅人に地元で会う

そのほかたくさんの細かい細かい約束たち

 

 

約束は最早わたしを引き留める理由にはならない 約束は破らないで、ひとつずつ消してゆこうと思う

 

 

ボンヤーリしていた気持はなくなったけれど死ななかったら無様だから公言しようか迷う 余計なことは言わなくても良いとも思う 

年内に死ぬというのも、約束のひとつだろうか

人間と関わると約束は自然と増えてゆくのだと思った。 だから別に気にしなくても良いのだと思った。わたしは無駄なことばかり覚えているけれど、だから、ほかのちゃんとできた人間はそんなこと覚えていないのだということ。まともな人間はそんなことに拘ったりしないということ。

死んでもしばらくは誰にもわからないようにしておきます。

 

ポジティヴなことの話

 

 

ポジティヴなことが、割にたくさんあることに気が付いた。

 

ポジティヴなことが たのしいことが 嬉しいことが もしかしたら幸せかもしれないことが…………

 

 

幸せになってはいけないと思って、傷を付けて血を流して、それを意図的に自分でして、それでどんどん不幸にならなければもう幸せにはなれないからだと思っていた。

 

 

 

 

死ぬことを決めました。だから幸せなんだと思います。

 

 

 

 

 

死ぬ前提の幸せだから、はやくはやく死ななくちゃならないんです。

 

 

 

 

 

 

 

なので手放していたスマートフォンをもう一度手に入れて、準備を始めなくてはならない。

 

 

 

死ぬことをやめたら今の幸せさえも無くなってしまうので死ななくてはいけません。

 

死ぬことをやめたら不安できっと死んでしまうので先に死んでおいてもべつに構わない。

 

結局なにを選んでもわたしは死ぬんです。そうしないと壊れてゆくだけだから、それは それは それは それは なんなのかはわたしにはわからないけれど はやく死のうねと囁かれます。

 

 

最高にポジティヴなことです。

会話の話(2)

 

会話は基本的にわたしを傷付けるものだけれど、そうでなくて逆に心を治癒するような会話もあるのだろうと最近知った。

 

やさしい世界の会話はとてもあたたかくて柔らかかったから、既に歪で破れてしまったわたしの心を少しだけなおしてくれた気がする。

 

感情をぶつけ合うような、ことばを跳ね返しあうような会話はとても神経を使うし疲れてしまうことが多い。内容も大抵は薄っぺらいのに、わたしにとってはなにも楽しいことなんてないのに楽しんでいるように振る舞うこともよくある。 そのときわたしはいつも、笑っていたりかなしい顔をしたり、表情を作っている。

感情をあまり使わないような、たぶん理性みたいなものをおおく使う会話はわたしにとっては理想的な会話と言えると思う。理想のはなしをしてしまうと収集がつかなくなる気がするのでしないけれど、お互いがお互いの反応を過剰に伺って必死で合わせてうんうんと頷いたり同調したりして、ひとつの考えについてみんながおなじ意見でないといけない、みたいな会話ではなくて、わたしはこうだけどあなたはこうなのね、それも良いよねみたいな、たぶん目的地は無い、結論の無いような会話 というような感じでもあるのだと思う。それが好きなんだと思う。

あとは無表情で話していてもお互い気にしなくても良い、というか気にならないというかそういうのも好きだと思う。まず顔を見ずに相手の表情を気にせずに話せるのはとても良いのではないだろうか。少なくともわたしにとっては。

 

話の内容はとくに問わない、そのことばのやりとりが穏やかで魅力的であれば何でも良いのだと思う わたしが好きな文章の内容を問わずにただそのことばの羅列を美しいと思うそれだけを大切にするみたいな感覚と同じ。

 

そういう会話を見つけられたのはとても大きな収穫だと思える。

 

 

 

だけど  その会話からしばらく経って やはり傷付かない会話なんてどこにも無いのだろう と改めて思うようになった。

 

ことばを大切に選んで真剣に並べて送りだす。

けれどそれでもどうしてもそのときは不十分になってしまうことがあって そうするとあとからそれについて考えてしまったり、ときにはそのことばの選び方によって 相手を 或いは自分を傷付けている そういうことはやはりあったのだった。

あとからひとり反省会をする癖があるからそういうことになるのかもしれない。けれどこればっかりは仕方がないともう割り切っているから、これからもずっと人間との会話に磨耗していくんだろうな。一時的に回復してもプラマイゼロになっているか、もしかして二度とそのひとと会話することがなければ余計に傷が増えてしまうということになるかもしれない。ちゃんと修正できたらきっとなんともないようになれるんだろう。

 

 

人間でないわたしには やはり会話は難しいものでした。

やさしい世界の話

 やさしい世界。

 

 

それはわたしがずっと焦がれていたものなんだと思う。

何年前だっただろうか そのことばをわたしの中に見つけて その時から間違いなくわたしの中に常に残り続けてきた言わば信念 理想 通すべき筋のようなもの それがやさしい世界をつくること、やさしい世界に暮らすこと。

 

世界 なんてものはあまりにもたくさんの意味を含んでいて 捉えようによっては何通りにもなるし言ってしまえば人によって違うけれど ここでは世界というのをわたしが暮らす空間というか環境のようなものと捉えてもらえばあまりニュアンスは無いのでは と思う。

 

地球に暮らす人間や動物や植物やその他諸々生きていても生きていなくても存在している全てが含まれる意味での世界では 戦争は絶えないし植物や動物は殺され続けているし人間のみならず存在しているものは何かに蔑視されているし全てのものは異なる何かによって憎まれ続けているし悲しみは大きく膨れるばかりだし呼吸出来ずに喘ぐ生き物、棘に刺されて見えない血を流し続ける心、すっかり乾いて荒れ果ててしまった感情 そんなもので溢れかえっている。

喜びや楽しみなんていう感情もそのぶんぽこりと浮かんでいるのかもしれないけれどたぶんそれは知らないだけ…

 

わたしは人間ではないから 人間の世界 所謂社会というのに馴染むなんてそれは出来ないしやろうとも思わない。もうやめた。人間の世界は少なくともわたしには合っていなくて、わたしにとってそこはやさしい世界ではなかったということになる。

 

やさしい世界。というのは かなり難しいものだと思っていた。全ての棘を防がないとならないと思っていた。 心地よい感情を満たすのが必要だと思っていた。 

けれどそれは本質的に違っていたようだった。

 

この頃わたしはやさしい世界をようやく見つけたみたいだ。それは完全ではなくて一時的で断片的ではあったけれど、確実にやさしい世界だった。

棘なんてわたしが消えてしまうまで防ぎきることは出来ない。それで心は歪んで破れてぼろぼろになっていくけれど、一時的にでもそれをすこしだけ回復させられる世界に逃げられること それがわたしにとってやさしい世界だったようだった。

 

 

ことばというのは難しくて 日本語という言語を日本ではみな話しているけれどそこには確実にニュアンスがあって、ときにはニュアンスなんてものでは済まされないくらい大きな誤差のようなものがあるものだと思う。

わたしはむかし ことばについてものすごく引っかかって定義して意味を確定させていた時があって どうやらそのせいで一般的な日本語とは少し違うことばを使っているみたいだった。一般的な日本語とはあまりにもかけ離れた意味を持つことばをいくつも使っていたんだと思う。

そのことばのニュアンスが大きければ、会話は上手く繋がらないしその分を他のもので補わなければならないからとても疲れてしまう。

逆に小さければ疲れもストレスも少なく会話そのものを続けていくことができるんだろう。

 

会話というのは疲れるものと思っていたけれどそれは一概には言えないことだった。会話にも二種類かそれ以上あって、感情を使う会話と使わない会話という分け方も出来る。

感情って厄介なもので、時にはそれは喜びをあらわすけれどあとからどっと疲れや悲しい気持ちがツケのように押し寄せてくる時もある。

異なることばを使う人間との会話にはよく感情が介入してきて、それは反射や感覚で言葉を跳ね返しつつ会話するイメージとなってわたしの中に存在する。言葉そのものについてあまり考えられていないから、棘は抜かれないまま 感情の起伏はかなり激しくて心がとても疲れていたみたいだ。

 

でも同じようなことばを使うひととの会話は違った。穏やかにことばを綴って受け入れ合うことが出来ていた気がする、そこにわたしはやさしい世界を見た気がする。

疲れていても出来る したいと思える会話があった。寧ろ荒んだぼろぼろの心に沁みていくようなことばを、わたし自身からも生み出していた。そういう会話が出来るひととは一緒に居るだけでやさしい穏やかな気持ちになることが出来ていたし それはわたし自身がやさしい世界を作り出しているということと殆ど同じなんじゃないかな。

 

 

つまりはやさしい世界って 触れるもの全ての棘や毒を抜いて傷付けるもの全部を遠ざけて そうやってつくりだしたパステルカラーの自分だけの箱庭なんかじゃなくて 日常の中で変わらずざくざくと傷付けられて泣きそうになって吐きそうになって死にたくなったそのときにこっそり逃げ込める隙間みたいなものなんだろう。

そこでわたしは穏やかに笑って、水面をおちつけ直してから、もう一度たくさんの棘を浴びに行くのだろう。

 

いずれはそのやさしい世界が占める割合を増やしていければいちばん良いのだと思う、けれどきっと全てには出来ないとも思う。

 

たぶんやさしい世界はかなり貴重というか手に入れ難いものだし、現に一週間のやさしい世界は既に消え去ってしまって今は途方に暮れている。でもどこかにそれがあることがわかったいまなら、また暮らすことが出来るかもしれない。

難しいことでも、出来るかもしれない。

 

 

やさしい世界は、理想から希望に変われるのかもしれない。

 

旅をする話

旅をしている、学校を辞めて、旅をしている。

 

 

このままきっと旅をして暮らすのだと思っていた。

 

 

学校を辞めた時、なにも感じなかった。

なにも変わらなかった。

それによって自由になったかと言われてもそんなことまったく無くて、わたしが縛られていたのは学校ではなかったことを知った。

学校を辞めても学校に行かなくなるだけでなにも変わらない。

 

 

 

旅をしている。

 

外国に出てきても、そこは所詮人間の住むところで、言葉が通じないのと多少文化やらなにやらが違うだけで、そこは日本と同じだった。

どうしてもそこで人間に縛られて、日本人であることに縛られて、存在に縛られて時間に縛られて、感情に、周囲の目に、偏見に縛られて、旅人であることに縛られている。

 

 

バスの中でずっと考えたこと、わたしが旅をすることについて。

 

ところどころで日本人旅行者に出会うと、やはり安心するのかすこし話したりごはん食べに行ったりするわけで、その時に年齢や仕事、学校の話になるのは自然な流れだと思う。

そこで大抵はわたしが既に学校を辞めたことを話す。

一瞬の沈黙があるときもないときもある。

殆どの人は良いと言う、肯定的なことを言う。

頑張ってそうやって言ってくれる、或いは本心かもしれないけれど、それはどちらでも構わない。

でも、それについて勇気があるとか尊敬するとか言われても、そんなことは決してなかったと、いまわたしは思う。

 

勇気なんてなくて、ただ惰性で辞めただけ。

尊敬なんかとはかけ離れていて、この世界では未だに"普通"が偉いから、わたしはただの出来損ない、最後まで通えなかっただけ 脱落者に過ぎないのに、いま流行りのインフルエンサーやらなにやらのように、人と違うことをして出世していくような彼らと、意図的に道を外れて走る彼らと混同されているだけ。

 

 

 

 

わたしが旅をする限り、これらの評価はついてくる。

わたしが旅をも辞めたとき、今度こそわたしは"世間"にも評価されなくなる。

 

世間のことが好きでなくて、好きになれなくて、評価なんて気にしないつもりだったはずなのにわたしは世間の目を気にせずにはいられないのだろう。

 

 

 

何者でもなくなるのが、たぶん怖いのだろう。

 

 

旅をしているうちはわたしは旅人で居られるし、なにか価値のあるものだとこじつけて思うことが出来る。わたしはそれが欲しくて旅をしている。

 

 

 

 

 

 

旅が好きかなんてそんなことわからない。

たくさんの場所を訪れるのは楽しい気がする。

たくさんの人と出会い話すのは面白い気がする。

たくさんの物を食べてみるのは興味深い気がする。

 

でもそれらが本当かなんてわたしにはわからない。わたしは旅をしたくて、本当に旅をしたくて旅に出ているのか。

 

そんなことわからない。

 

 

わたしが旅をする理由は、それはかなりネガティヴなものなのかもしれない。

 

でも、旅をやめることなんて、いまは到底出来ないのだから。この靄をずっと抱えながら旅をしていくしかないのだから。

 

わたしは、少なくとも今のわたしには、それしか出来ることがないと、そう思い込んでるのだろう。思い込んでいると思い込みたいのかもしれない。

自分探しの旅なんてそんな綺麗なものじゃない。

 

 

 

 

Requiemのような旅を。

 

人間を信じることの話

 

この頃どうしても人間のことを信用できなくて、なぜだかわからないけれどどうしてもそのことばかりを考えてしまう。

自分のことについてもうすこしたくさん考えたいと思って思いを巡らせていても、最終的には人間の信用のことになる。

 

いつからか人間を信用していないんだと実感してたぶんまだ少ししか経っていないけれど、いつから信用していなかったのかはよくわからない。昔から良い子とか優等生とかを演じてきたけれどそれももしかしたら信用できなかったからかもしれないとか思ったり。

たぶん好きな人とかも居ないし出来たとしても信じることはなかなか難しいのではないかなと思ってしまう。根本的に誰かを信用したいと願っているのかさえもよくわからないので困る、別に信用しなくたって良いやと思えるのならもう信用するなんてこと放棄すれば良いわけだから。

 

でもそうやっていつも人に対して自分を作っているとまぁ疲れるわけだから、出来れば疲れたくないわけで、そうなるとやはり人間を信用する道を探さなければならないのかもしれない。でも人間を信用したらしたで、たぶんいろんな人間に騙されるし、そうするのはわたしにとってかなりストレスになってしまう気がするから、そうやって考えるともう人間と関わることさえも放棄したくなる。

 

わたしが助けを求めるのが下手くそなのも、たぶん人間を信用出来ないからなんだろう。人間じゃなくて全然構わないから、寧ろ人間じゃない方が良いからなにか信じられて助けを求められるものが居れば良いのにな。

 

嫌だな、わたしは親という最も信用出来ない人間から産み落とされて、人間になるよう強制されてきたけれど、どう頑張っても人間ですらないし生き物ですら無いわけだから、一体どうすれば良いんだろう。これからどう暮らしていけば報われるんだろう。苦しく無いんだろう。絶望がなくなるんだろう。救われるんだろう。死にたくなくなるんだろう。大丈夫になれるんだろう。道は暗いうえに靄がかかっていて、地面は凸凹で大きな岩や深い穴がたくさんあって、狭くて、まっすぐなのか曲がっているのか分かれ道があるのかもわからないのに、そこを目隠しされて耳も聞こえず、手枷足枷をつけられてそれでも進めと急かされて、わたしは一体なにをしているんだろう。誰も助けてはくれないというのに。もう人間のことは諦めた方が良いんだろうか。お道化を演じれば人間は簡単に騙されるから、もうずっとお道化を演じていれば良いわけだ。冗談めかして助けを求めて、それを本気にする人間を見つければ良いのか?人間のことを諦めたつもりでも、どうせ人間が居なければ人間社会で暮らしていくことも出来ない。人間が居なければ良いように暮らせるかもしれないけれど人間が居なくなることなんて無いんだろうな。人間のことを諦めてもどうせ人間のことばかり考える。人間になれたらどれだけ楽だろうな。いつこんなことに気が付いてしまったのだろうか。絶望だな。

人間失格の話

 この頃太宰治のことが好きで、すこしすこし読んでいたりするのだけれど、その人間失格というはなしの言葉の端々になんとなく魅力のようなものを感じた気がして本屋へ赴いて買ってきた。なぜかわからないけれど最近文章を読むのが難しいことになってしまっていて、とくに太宰治の文章などはまた回りくどくなかなか一文が終わらないから所々流し読みしながらとりあえず一周してみた。

 

とてつもない、どうしようもない、なんと表せば良いのだろうか、まるでわたしが今まで散々わたしは人間でないように思われると言ったその言葉がもっと確実な言葉にされてこんなにも前に残されていたことに対する言いようのないような喜びのような悲しみのようなわけのわからない気持ちに襲われて、なんともナーヴァスになってしまった。一晩寝かしてみたけれど、なんということだろうか、やはりこの世界には人間と人間に擬態したなにか全くべつのものが存在するのではないだろうか、と思ってしまう。或いはこれは全てフィクションなのかもしれないけれど、少なからずわたしの感覚に近しいことを思いつくだけでもしていたのならそれは、喜んで良いのだろうか。なにもわからない、なにもわからないけれど、もしやこの話がこんなに有名なのなら果たして人間でないなにかが存在していても許してもらえるのではないだろうかとか、はたまた人々はこれは完全なるフィクションだと、或いは太宰治に限ったことだと、彼のような人に特別なことだから許されるのだと思っているのではないだろうかとか、いずれにしろわたしは掬われることなどたぶん無いのだろうと思って、またわけのわからない黒い影に胸をざくざく貫かれるわけだと。

 

同じ感覚をもつものが居たとしてもそれが救いになるわけでもなく。逆にそれらでコミュニティを作ってその中でまたマイノリティとなることの方が可能性が高い気がする、なぜならわたしは、人間のみならず、人間の形をした不幸な人々でさえも、すでに信用できないから、すでに上手くやれないから、すでにもう手遅れとわたし自身がそう思っているから、もうなにをしても意味をなさないのだと、どうしようもない、どうしようもない、そういうことばかりが頭の中を駆け回るのみでまともな思考さえ出来ないのだと、或いは太宰治のように文章を書けたりすれば若しくは許されるかもしれないがそれを継続できてその許されることによって集まるであろう注目に耐えられるかなど考えてしまえばそれに確信は持てないわけで。許される為に人間に自分を認知させて良く良く知らせる為に曝け出すなど、そんなことはわたしには出来ないのだ。

 

言うまでもなく、悲しい哉すでに自覚している、

人間、失格。

どうしてこうなったのかなど考えてみてもてんでわからないのです。

いつからずれたのかなど考えてみても、やはり、生まれたときそのときから人間のことなどなに一つわからなかったから、もともとそれが悪かったのだと、そのときから間違った存在だったのだと。

 

必ずしも太宰治と同じでなければならないわけではないし、寧ろそんなことは不可能だし、でもなんとなく似た方面の雰囲気を感じる気がする。解釈云々はわからないしこれからもたぶん変わっていくけれど、わたしが人間失格であることはおそらく一生付きまとってくるであろう、そうしてわたしはそれに耐え切れるはずがないから、なんらかの手段によって、さあ、消えてしまおうと、美しく、あとでひとがなんと言おうと、消えてしまおうと、そう確実に思ってしまうのです。