脈絡

読み難い

いちばんの敵の話

いちばんの敵というのは自分だっていうのは結構たくさんの人が言っていて寧ろこの頃はそう言わないと逆におかしいみたいな風潮になりつつすらあるのではないかと思う。かくいうわたしもそう思ううちのひとりなのだけれど。

だけど一般的に言われている敵である自分とわたしが考えている敵である自分とはなんとなく違う気がしている。

 

一般的にはたぶん自分の精神力の弱さとかそういうものを敵としているのだとわたしは思う、これは推測の域を出ないけれども。

でもわたしはそうじゃなくて、いちばんの敵は己の考え方であったり感情であると、そしてそれを生み出すのは紛れもなく自分だから、だからいちばんの敵は自分だということを言っているのだろうと思う。精神的な弱さとかもそこに含まれると言ってしまえばそうだけれどなんとなくわたしはそれらを違うものとして扱いたい気持ちがある。

死にたいとか消えたいとかなんでなんでのループとかそういうのを生み出すのは全部自分だから、だからいちばんの敵である自分を倒さないとわたしの世界は一向に平和にはならないんだと、そして平和が訪れたときにはもうわたしの世界は終わっているのだと。

そうしてわたしはそれを望んでいるのかもしれないということ。

 

居場所とかの話

結局どこに居たってすることは変わらないのだと思う。

 

つまりはそういうことなんだな。都会に居てもふるさとに居ても、そのどちらでも無いどこかに居ても、わたしの居場所はおそらくないだろうしわたしがすることは同じなんだろう。物理的な変化なんてさして重要ではなくて、もっと見えないところで違いが生まれてこないとなにも変わらないのだろう。

存在のはなしとか暮らしのこととか、わたしには難しすぎてもうすべてを放棄したくて旅に出たつもりだったのに、なぜか知らない離島に居てもすることはないしいつものようにスマホを握りしめて夜をやり過ごすだけ。

 

たすけてくれと懇願することはわたしには到底できそうにもないけれど、ほんとうはたすけてほしいんだろうと思う。どこにいるべきかはわからないけれどここじゃないことだけはなんとなくわかる。

波の音が聞こえる、雷は遠ざかったみたいだ。

家庭菜園のプチトマトの匂いが懐かしい気がする。

 

どうしようもない夜にどうにかできる方法を探してみても、ひとつしかないと思いあたる思考回路しか持ち合わせていない。どうにもならない日じゃない日も犠牲になるけれどそんな日はたぶん殆ど無いんじゃないかな。

 

隣に誰か居てくれればと思うときがあるけれど、そうしたとしてもいずれ煩わしくなって縁を切りかねないからやめた方が良い。所詮はわたしだから、いつまでもTwitterに独りごちていれば良い。

 

 

居場所なんかないんだと思えばすこしは楽になるかもしれないと思ったけれど、人間の本能的にそういうのは難しいのではないだろうか。人間なのかさえわからないけれど。

 

 

 

 

それならやはり流されておくしかないのかな。

火の話

 

火はわたしを落ち着かせる。

もしかすれば全ての人間に組み込まれているのかもしれないけれど、そういう遺伝子のようなものがあるのかもしれないとも思う。

 

火が好きということは、それは紛れもなくわたしが人間の体を持っているということかもしれない。もしわたしが人間でないなにかの動物なら、恐らくは火を怖がるだろうと思う、けれど人間でも既に確認されているほかの動物でもないなにかであるという可能性は残されているのだろうとも思う。

ひとりで火の番をしていると、心のざわつきが静まる。片付けとかもしようという気力が出てくる。結果としてそれが良かったというのは疑いようのないことで、良いことはたくさんあったし精神状態もそれらのことのおかげか落ち着いて居た。

 

火に対してそこまで強く心を惹かれるわけではない気がしている。

火があればそちらへ行くだろうけれど、そこに固執しようとは思わない。だからわたしは自分のことをはっきりと認識出来ないのかもしれない。その理論もまたわからない。けれどわたしは自分のことを中途半端なものだと思う。ある時代には同じようなものがマジョリティだったのかもしれないと思う。けれどわたしは多分同じようなひと達と一緒に居たいとは思っていないから、そんな中に居たらすこし困るかもしれない。でもマイノリティで辛いのが好きなわけでもないから困る。

 

火を見ていると、それまでにあった心の蟠りや落ち着かない気持ちが知らないうちに消えていっていて、それははっきりと感じられるように消えていくよりはずっと良い落ち着き方だと思う。暖かくて、何故か人間よりもほっとして、だからわたしは火が好きだ。

だけれど火葬されるのはあまり好ましくないと思っている。燃やされて跡形もなくなるのが嫌なわけではないとは思うが、きっと食べられない状態になるのが嫌なのだろうと思う。わたしは人間というよりは生き物でありたいと思っているから、食べられて終わればそれは良いだろうと思う。変なことだとは思うけれど、長い間考えて出した結論なので自分の中ではかなり納得している。出来ないことではあるけれど、願わくば死んだら森に放置してほしい。或いは森で死にたい。火を付けて灰になって、お墓の中に入るのはどうも性に合わない気がしている。そうしたら一生(?)そこに留まっていなければならない気がする。あとは生き物として終わるのなら最後は食べられるべきだという考えがある。もう既に生き物ではない気がするからどうしようもないと言われればそれ以上だけれど、最後くらい良いだろうとも思う。生き物として死にたい。

 

話が逸れてしまったが、火は二度と同じ形にはならないということを考え始めた。湯気とか雪とかも同じで、同じ形にはならない、そういうものを見ているとやはり火のときと同じようにすこし心が落ち着く。そういうものが安心させるのは、それがそのまま自然をあらわしているからかもしれない。自然でありたいといつも思っているのにそれはほぼ不可能に近い気がしている、或いはまたそれはいま現在でも達成出来ているのかもしれないけれどそれに気付くことがほぼ不可能だとかそういうことも考えるけれど。時間の流れを感じられることもある。実態の掴めないものは不安だから、すこしでも可視化するだけで安心するとか、そういう可能性。

 

可能性のはなしばかりしてしまっていたけれど、この頃は火を見ることもめっきり無くなってしまった。だから落ち着くこともほとんどない気がする、気のせいかもしれないけれど。

よく命のことを火に例えることがあると思うけれど、そういうのがもし理にかなったものであればわたしはその火をもともと持っていなかったか或いはどこかで消してしまったのにまだなんでかここに存在してしまっているというふうに感じる。たまにちゃんと生きてるひとのことをみたりするのだけれど、そういう人を見るとそれを実感する。

ちゃんと火のように命を削って生きていられれば良かったのだけれど。

 

 

忙しいことの話

 

最近なんだか知らないけど意味わからないくらい忙しくてもうどうしようどうしようなんとか目の前のことばーーってこなしたらあれいつの間にやら夜中じゃないかって、そういう毎日を過ごしている。良いのか悪いのかはわからないけれど少なくとも暮らしをやっている実感はない。

 

丁寧な暮らしをやっていく というのを前はひとつの目標にして居たのだけれど、それにはかなりお金がかかってしまうし忙殺されてる毎日の中で丁寧になんてやって居られなくなる。きっと出来る人はちゃんと出来るんだろうけれどわたしには出来ない。少なくとも安定した収入があればな〜と思う。

 

収入のことだけれど、最近バイトを始めてこれまた忙しいに拍車をかける。まぁ部活やめたし勉強も辞めたから忙しさとしてはまえとどっこいどっこいなんだろうな。ただ体感としては何故か今の方が忙しい気がする。

 

アルバイトでは時間を売って、お金を得ている。わたしの行動には払われていないと思う。お金のことを考えてなんとか通っているけれどやはり人と関わるのは疲れるしやってること自体立ち仕事で歩き回ったり気を配ったりしてどっと疲れる。まぁ嫌いじゃないけどね。悪い人ひとりもいないしそんなにブラックでもないし、多分割と良いんだと思うな。

 

あとは学校外の団体にひとつ入って、なんかそれのLINEやらmessengerやらなにやらが毎日毎日100とか200とか溜まるし、Facebookでも毎日めちゃくちゃ長いのが投稿されててそれらを読むだけで一時間とかかかるときもある。それが最近大変なことかもしれない、忙しい理由かもしれない。

ミーティングとかそれ以外の活動とかもある。そこにいるのも良い人たちばかりだしやってることも面白いと思う、けれど果たしてそれはわたしに出来ることなのだろうか?

彼らは多分根はものすごい変人でかつパリピ的なタイプの人間なんだと思う。そのきゃっきゃしてはしゃげる能力がわたしにはない、なんにもないこれっぽっちもない。好きなことは彼らと共通しているけれどどうしてもうまく馴染めないな、と思った。とりあえず今年度は続ける。

 

 

行きたいイベントとか、行きたい場所とかたくさんあるのに、なぜか一日中オフの日が実は月に一回くらいしかないとか最近普通にある。

 

そういう渦のようなものに巻き込まれて流されて揉まれて過ごしているとどうしてもやはり行きているとは感じられるようにはならないし(まあそれは前々からだからまだ良いとして)暮らしをやっているという感覚さえ失われてしまう気がする。

 

漠然と危ないなーとか思ってたり。

対処法はわからないしこれからも多分しばらくはこのまま続けていくのだろうけれど、このままで良いのかな とかは一応思っている。

 

 

あんまりにも駄目になってしまって、学校の課題も終わらせられなくなったしちょくちょくさぼるようにもなっている。良いのか悪いのかは知らない。でも必要とは思う、だって週末はお休みにならないから。なにかとイベントバイトミーティングその他所用が盛りだくさん。休めやしないの。

 

学校に行くとしても授業は聞こえないし暫くしたら頭痛でどうしようもなくなるし保健室嫌いだから行きたくなくてなんとか終わるまでいるんだけど午後の授業とかほとんど突っ伏してるし意味がない。これはまぁ多分わたしのせい。半分くらいは、少なくとも。

 

受験もしないから聞く気が起きないっていうのもあると思う。あとはただ単につまらない。この時間を使えたらもうちょっと忙しさを緩和出来るのかなって思うこともある。本当のところわかんないけど。

 

 

乙女座だから忙しいのは嫌いじゃないし、逆にやることなかったら落ち着かなくてやばいんだけれどだからといって忙しすぎると疲れてパンクしてしまうしいつ起き上がれなくなるかわからなくて不安になる。

 

一回だけ前にいろいろやっててパンクしたことがあって、その時は校外のイベントとか団体との関わりを一旦切ってなんとなことなきを得たんだけれど、今回はわりと契約的なのが関わってたりするから厳しい。そして自分で言うのもなんだけれど多分どちらの団体もわたしを引き留めるだろう。と思う。疲れてしまうのは人の感情のせいかもしれない。

 

思ったことを正直に気兼ねなく言える相手が多分いま居なくて、危ない方の道に足を踏み入れてしまったと思う。連絡を取るべきでない人に連絡を取ってしまった。忙しいせいかは知らないけど。

 

 

忙しい忙しいって、時間は作るものだよって言われて仕舞えばおしまいなんだけど。それならどうやって作るのか教えてよ。学校に拘束されてバイトに拘束されて、団体の活動に拘束されて。やめるにやめられない状況だし。どっからかき集めれば良いのかわたしにはわからない。空いた時間は回復に全部使うよ、身体と心両方回復させないといけないのに両方一気になんてこの部屋じゃ少なくともわたしにはできないからどっちか優先する。とりあえずいつも心を優先してるからTwitterやらなにやらに住むことになる。過食してしまう。身体は余計疲れる、けどそんなこと言ってたらいつ発狂してしまうかわからない。どうしようもないことなんだと思う。

 

たまに全部やめたくなるよ。学校もバイトも団体も、暮らしもなにもかも。その頻度が増えてきているから、今の忙しさは危ないんだと思う。

 

 

サイレンの音が神経を逆なでする。

もしかしたらいっかい全部やめてみるべきなのかもしれないな、とか。

わけわからんくなったけど。おしまい。

 

会話の話

 

会話に於いて大切なものはなんだろうかと考えると、わたしはそれは質問なのではないかと思う。結構当たり前のこと言った。質問から会話がスタートすることが多いし、発展させるのもまた質問だから。正論。

 

わたしは質問が苦手だ。質問されるのはまぁ大抵の場合は構わないが、自分から質問するのがなかなか出来ない。聞きたいことがもしあったとしても、聞くタイミングを見計らっていて逃すことがいちばん多い。思いつく質問自体きっと少ないから質問できるのがかなり少ない量になる。

 

そういうのは元から他人のことを知ろうとしないからなのかもしれない。事実、あんまり興味ないことが多いし。聞いても聞かなくてもどっちでも良いというか。

それから、これは最近気付いたのだけれど自分の話をするのが結構好きだということ。そのせいでなかなか相手の話を聞く時間が取れないこと。でも人の話を聞くのは好きだからわりと矛盾というかかなり非効率的なことをしている気がする。

 

 

会話はあまりにも高度な行為だとわたしは認識している。

2人ないしそれ以上の人数で交互に言葉を発して、それが上手いこと意味を成してだれも出来るだけ不快にならないように考えたりかつ自分も満足したいし、とかそんなのを考えるともう無理だろう。

 

多分会話は楽しいものであるべきだから、つまらない会話は失敗した会話なのだろう。

 

そう、そういえばつまらない会話で思い出したのだけれどわたしは途中で会話に飽きることがある。それはかなり大きな問題だと思うのだけれど。突然どうでもよくなって反応も適当になるから、話している相手にとっては急に機嫌悪くなってどうしたこいつって感じだと思う。

めちゃくちゃ申し訳ない、けれどこれは実際どうしようもない。わたしにどうこうできる問題じゃない。世の中そんなもんだ。まあ適当なあしらいをそれなりに上手くできるようになればちょっとはましになるとは思うけどね。

 

 

失敗した会話を生み出さないようにする方がきっと人間関係を構築する上で大切。だけどそんなことばかり気にしていたら肝心の会話の内容自体は疎かにならないだろうか。本当に知りたいこととか話したいことを話せなかったら結構モヤモヤするし、わたしはそういうのをあまり好まない。

 

いちばん大切にするものはなんだろう。

 

それをはじめに決めておいたらちょっとは話しやすくなるのかもしれない。わたしは不器用で二つ以上のことを一度にできないタイプだから、なにか大切にすることを決めたらそれ以外が疎かになるとは思うけれど、まぁいずれそれを心がけることが当たり前になった時に次のことを注意すれば良いんだろうな。

 

ここまで書いたけれど、わたしはわたしが本当に円滑に会話を進めて気持ちよく終わらせることに興味があるのかもよくわからないし、本当のこと言うと書いてる途中でどうでもよくなっている。

そこまで完璧な会話をしようとは思わないし、まずどう頑張ったって出来ないだろうし、いざそうなれば多分あんまり面白くないんだろうなぁとかまあそんなこんなを考えているわけだ。

 

 

 

 

毎回思うけどなんの学びも教訓もない文章だな。

 

おしまい。

 

 

文章での会話の話

 

文章での会話、例えばLINEとかTwitterのリプとかDM、あとメッセンジャーとか そういうのが苦手。

 

なんでかわからないけど、発言が不自然になる気がするし、みんなみたいに上手く言葉や顔文字とかも使えない。

語弊ばかり生まれる気がして、相手が傷つかないようにしないとな〜とか考えてると返信に1日以上かかって逆に心配させてるかもしれないな、とか。

 

実は今も返せていないメッセンジャーの会話がひとつあって、それにはネガティヴな内容のことを返すから、またこれは返しにくい。でも何かの勢いで適当に返せることもあるからよくわからない。

 

 

たまに、なんて返したら良いのかわからないLINEが来る。 なんか感情の一方通行みたいな感じで、わたしからすると若干気持ち悪いなって思うけれど向こうのことが嫌いなわけでもないし、割とデリケートな人間な気がしてるから適当に返せない。

会って話していたのなら適当に誤魔化すことも濁すことも出来るのに、文章ではそれが出来なくて嫌だ。

 

それでも気に入った会話をとっておけるとか、あとでなんて言ってたか確認できるのとかは凄く良いと思う。

 

 

無機質な感じがして嫌だという人ももしかしたらいるのかもしれないけれど、そのあたりはわたしは気にしていない。文章であろうと声として発せられた言葉であろうと、その人が発した言葉だということに変わりはないからかな。

 

手紙の方がメールより良いとかもあんまり思わない。たまに届いたらそれはそれは嬉しいけどね、でも好きな人からだったらLINEでも同じくらい嬉しいと思う。

 

言葉をもっと大事にしていたいなと思うけれど、そうするとなんだかちゃんと使えてない気がして、言葉を使えなくなる気がする。

いちいち定義とかを考えてみたりして、なんとなく発した言葉が自分の意図することと違う意味で受け取られないようにしたくて。

 

そういうめんどくさいのが、文章での会話が苦手な原因なのかもしれないな。まぁ直さなくても良いとは思う、妥協するか極めるか、或いは慣れかで解決するかな。根本的でないとしても。

旅の話

 

旅が好きで好きで好きだ。

 

昔、あるバンドにはまった時のように、かつて数学に夢中になった時のように。

 

ただひたすらどこかに行きたくて、毎日同じ時間に同じ場所に行かなくてはならないのが苦痛で学校が辛くなるほど好きだ。

 

あの開放感が好きだ。あの自由が好きだ。なんでも自分で勝手に決められるところが、無理して人に合わせなくて良いところが好きだ。あの孤独が好き、あの不安が、心の中に冷たい風が吹き抜けるような感覚が大好きだ。

 

足の向くまま 気の向くまま、ふらりと立ち寄った場所で出会ったもの、ひと、景色や言葉は、決して行動を起こさねば手に入れられなかったものであることに間違いはないのだ。

 

まだ会ったこともないのになぜかずっと知り合いのような感覚のするTwitterの旅人たち、会ったその瞬間から苦楽を共にしたかのような仲間になれる旅人たち。

 

彼らは人に良くされてきていて、人に良くする方法を知っている。人に良くすることにためらいがなくて、良くされることにも引け目は無い。なぜならその後誰かに返せば良いから。その関係性が好き。

 

彼らから聞く旅の話がすき。行ったことのない未知の場所の話、鳥肌の立つような素敵な話。

行ったことのある懐かしい場所の話、共通の話題、過去と現在の話。

 

これほど素晴らしいことを未だわたしは旅以外に知らない。

 

 

でも、それでもいつか飽きてしまうのか、それはそれは不安だ。

音楽のように、数学のように、別の大切なものを見つけて手放してしまう気もする。

 

だからそれまでちゃんと旅をして、旅のことを見ていたいと思う。

 

感情的に、ただそれだけの話だ。要するに旅が好き。それだけ。