脈絡

読み難い

火の話

 

火はわたしを落ち着かせる。

もしかすれば全ての人間に組み込まれているのかもしれないけれど、そういう遺伝子のようなものがあるのかもしれないとも思う。

 

火が好きということは、それは紛れもなくわたしが人間の体を持っているということかもしれない。もしわたしが人間でないなにかの動物なら、恐らくは火を怖がるだろうと思う、けれど人間でも既に確認されているほかの動物でもないなにかであるという可能性は残されているのだろうとも思う。

ひとりで火の番をしていると、心のざわつきが静まる。片付けとかもしようという気力が出てくる。結果としてそれが良かったというのは疑いようのないことで、良いことはたくさんあったし精神状態もそれらのことのおかげか落ち着いて居た。

 

火に対してそこまで強く心を惹かれるわけではない気がしている。

火があればそちらへ行くだろうけれど、そこに固執しようとは思わない。だからわたしは自分のことをはっきりと認識出来ないのかもしれない。その理論もまたわからない。けれどわたしは自分のことを中途半端なものだと思う。ある時代には同じようなものがマジョリティだったのかもしれないと思う。けれどわたしは多分同じようなひと達と一緒に居たいとは思っていないから、そんな中に居たらすこし困るかもしれない。でもマイノリティで辛いのが好きなわけでもないから困る。

 

火を見ていると、それまでにあった心の蟠りや落ち着かない気持ちが知らないうちに消えていっていて、それははっきりと感じられるように消えていくよりはずっと良い落ち着き方だと思う。暖かくて、何故か人間よりもほっとして、だからわたしは火が好きだ。

だけれど火葬されるのはあまり好ましくないと思っている。燃やされて跡形もなくなるのが嫌なわけではないとは思うが、きっと食べられない状態になるのが嫌なのだろうと思う。わたしは人間というよりは生き物でありたいと思っているから、食べられて終わればそれは良いだろうと思う。変なことだとは思うけれど、長い間考えて出した結論なので自分の中ではかなり納得している。出来ないことではあるけれど、願わくば死んだら森に放置してほしい。或いは森で死にたい。火を付けて灰になって、お墓の中に入るのはどうも性に合わない気がしている。そうしたら一生(?)そこに留まっていなければならない気がする。あとは生き物として終わるのなら最後は食べられるべきだという考えがある。もう既に生き物ではない気がするからどうしようもないと言われればそれ以上だけれど、最後くらい良いだろうとも思う。生き物として死にたい。

 

話が逸れてしまったが、火は二度と同じ形にはならないということを考え始めた。湯気とか雪とかも同じで、同じ形にはならない、そういうものを見ているとやはり火のときと同じようにすこし心が落ち着く。そういうものが安心させるのは、それがそのまま自然をあらわしているからかもしれない。自然でありたいといつも思っているのにそれはほぼ不可能に近い気がしている、或いはまたそれはいま現在でも達成出来ているのかもしれないけれどそれに気付くことがほぼ不可能だとかそういうことも考えるけれど。時間の流れを感じられることもある。実態の掴めないものは不安だから、すこしでも可視化するだけで安心するとか、そういう可能性。

 

可能性のはなしばかりしてしまっていたけれど、この頃は火を見ることもめっきり無くなってしまった。だから落ち着くこともほとんどない気がする、気のせいかもしれないけれど。

よく命のことを火に例えることがあると思うけれど、そういうのがもし理にかなったものであればわたしはその火をもともと持っていなかったか或いはどこかで消してしまったのにまだなんでかここに存在してしまっているというふうに感じる。たまにちゃんと生きてるひとのことをみたりするのだけれど、そういう人を見るとそれを実感する。

ちゃんと火のように命を削って生きていられれば良かったのだけれど。