脈絡

読み難い

会話の話(2)

 

会話は基本的にわたしを傷付けるものだけれど、そうでなくて逆に心を治癒するような会話もあるのだろうと最近知った。

 

やさしい世界の会話はとてもあたたかくて柔らかかったから、既に歪で破れてしまったわたしの心を少しだけなおしてくれた気がする。

 

感情をぶつけ合うような、ことばを跳ね返しあうような会話はとても神経を使うし疲れてしまうことが多い。内容も大抵は薄っぺらいのに、わたしにとってはなにも楽しいことなんてないのに楽しんでいるように振る舞うこともよくある。 そのときわたしはいつも、笑っていたりかなしい顔をしたり、表情を作っている。

感情をあまり使わないような、たぶん理性みたいなものをおおく使う会話はわたしにとっては理想的な会話と言えると思う。理想のはなしをしてしまうと収集がつかなくなる気がするのでしないけれど、お互いがお互いの反応を過剰に伺って必死で合わせてうんうんと頷いたり同調したりして、ひとつの考えについてみんながおなじ意見でないといけない、みたいな会話ではなくて、わたしはこうだけどあなたはこうなのね、それも良いよねみたいな、たぶん目的地は無い、結論の無いような会話 というような感じでもあるのだと思う。それが好きなんだと思う。

あとは無表情で話していてもお互い気にしなくても良い、というか気にならないというかそういうのも好きだと思う。まず顔を見ずに相手の表情を気にせずに話せるのはとても良いのではないだろうか。少なくともわたしにとっては。

 

話の内容はとくに問わない、そのことばのやりとりが穏やかで魅力的であれば何でも良いのだと思う わたしが好きな文章の内容を問わずにただそのことばの羅列を美しいと思うそれだけを大切にするみたいな感覚と同じ。

 

そういう会話を見つけられたのはとても大きな収穫だと思える。

 

 

 

だけど  その会話からしばらく経って やはり傷付かない会話なんてどこにも無いのだろう と改めて思うようになった。

 

ことばを大切に選んで真剣に並べて送りだす。

けれどそれでもどうしてもそのときは不十分になってしまうことがあって そうするとあとからそれについて考えてしまったり、ときにはそのことばの選び方によって 相手を 或いは自分を傷付けている そういうことはやはりあったのだった。

あとからひとり反省会をする癖があるからそういうことになるのかもしれない。けれどこればっかりは仕方がないともう割り切っているから、これからもずっと人間との会話に磨耗していくんだろうな。一時的に回復してもプラマイゼロになっているか、もしかして二度とそのひとと会話することがなければ余計に傷が増えてしまうということになるかもしれない。ちゃんと修正できたらきっとなんともないようになれるんだろう。

 

 

人間でないわたしには やはり会話は難しいものでした。