自分勝手という話
自分勝手である。 わたしは自分勝手だ。
と、いうことを少し前に気付かされた。
だからどうという話でもないのかもしれない。
気付いたからといってもう常に死にたい状態に落ち着きつつあるこのお気持ちが何とかなるわけでもなければ、あぁわたしは自分勝手だからどうしてもそれは変えなければならないとかそういうことを強く思うこともない。
申し訳なかったなあとは思う。
人間をとりあえず怖いものとして認識して始まる関係の中から怖くない人間を探してその中から大丈夫な人間を探す、ということをしています。
そういうことでなんだかごくまれにすごく大丈夫でしかも優しくしてくれる人間がいると嬉しくなってしまう(お前は後に裏切られる)(それさえ思い上がりでそもそもすべては私の思い違いでいずれそれに気付くというだけだ)。
なんだかよくわからない育ち方をしてきたようなので5才のままこの歳を迎えてしまったようです。
人間とのかかわり方が両極端である。
甘え方がよくわからなくて全く出来ない或いは度が過ぎる。
一般人なら普通に出来るんだろうなぁと思われることで首から下の全部の毛を一本ずつ抜かれるよりも嫌なことがありますか、わたしには有ります。
そういうのをうまく伝えられなくて何にも出来ない。
他人とは同じようになれないというのはわかっている、そうしてだからわたしが想像する『一般』とか『普通』とか『世間』とかってものが実際のそれらとは大きくかけ離れているものだということもようく理解しているつもりで、でもそれでもなんとか世界と対峙するにはわからないなりにそれを想像しないと始まらないのではなかろうか、とわたしは思うのである。
つまりなんだというのは、わたしが想像した実物とは違う世界について恐れている/怯えていることについてそれをナンセンスと一蹴されたことについて わたしはわたしの見ている世界から世界を想像し、それがわたしにとって恐ろしいものとなっているのだから世界はわたしにとって恐ろしいということは否応なく認められることなのではないのか、ということ。
わたしは自分で作り出した想像の世界に怯えているのではないと思う。恐ろしい想像の世界を作り出した現実の世界が恐ろしい。のだと。
……何に対する気持ちを書き出していたのだかわからなくなった。
でもわたしが怖いというものは怖いのである、誰がなんと言おうと怖いのである、そうしてそれが怖くないものだということに気が付いても急に身構えるのをやめることも出来ないのである。
はい次。
死にたい~と泣いたら少しは気持ちが楽になってもよいのでは? まあそんなことはわたしには良くわからないのだけれども。
死にたいと泣きついてもわたしのなかのしにたいは増える一方で分裂して向こうに行った死にたいは所在無さげにこっちを見てる。
本当に死にたい人は他人に死にたいなんて言わないんだよだから貴方は死にたいわけじゃないんじゃないのかといわれまして確かにそうなのかもしれないけれどまたこれもよく言われることですがやりたいことはどんどん口外していけということで なぜこれがその例に当てはまらないといえましょう?
日記を書き続けているのは惰性だと思う。
優しくしてほしいのは、死にたいのが決まっていてもせめてそいつが顔を出す時間を最小限にしておきたいから。
そうやって自分が死ぬのに都合が良いほうにばかり考えたいのは、理由がちょっとわかりませんねぇ。
わたしは死にたい。
わたしは死にたいと思っている。
わたしは死にたいと思っていると思っている。
わたしは死にたいと思っていると思っていると思っている。
わたしは死にたいと思っていると思っていると思っていると思っている。
さてどれが正解でしょう、或いはすべてでしょうか。
どうしたらよいのかは、いつでもわかりません。
次。
今朝起きたときに、起き上がれなかった。
ひっさしぶりだなあこれ。
それでも起きなければならないので起きてやること済まして移動を始めたけれど案の定駄目になったのでこうしてインターネットの世界に居るわけですが。
知っている町でも知らんところでも、とりあえず何にもない小さい部屋を借りて引きこもりたい。
冬ですね。去年の今頃もこんな感じだった気がする。
もうどこにも戻れないのは、そうわたしが決めたからです。
次。
いや、もういいです。
悲劇のヒロインになりたいだけじゃないのって、暮らしてて別々の人間に二回言われるような、そんなわたしです。自分を変えられるのは自分だけって、そんな子といわれても自分を変えたいのか変えたくないのかそもそもその『たい』って希望みたいなのがあるのかすらよくわからないようなわたしです。
うまいことさよならしようねぇなんていっても、結局は自分勝手な方法を取ることになりそうです。