脈絡

読み難い

大丈夫とか大丈夫じゃないとかの話

 

しばらく書いてなかった。長い文章書けるような状況でも無かったかもしれない。

 

大丈夫じゃなくなって、どうしようも無くて旅に出たりしていたり。

 

そうしたらそのあとまた身動き取れなくなったり。

 

一度逃げてしまったら世界はもう逃げずにいた頃の世界とは完全に変わってしまって、大丈夫だったはずのことも大丈夫と受け止められなくなって、悲しくなったりして、学校をはじめてさぼったりとかして。旅の前の大丈夫じゃなかった状態から旅の途中に割と大丈夫になって、そのあとは耐性が消えたというのか糸が切れたというのか、少しのことにも耐えられなくなった。

 

勉強に興味が持てなくなって、学校に意味を見出せなくなったからかもしれない。意味のないことはやりたくないだろうし、やりたくないことをずっとしているときっと大丈夫ではなくなってしまうのだろう。

 

前まで大丈夫だったことが今では大丈夫でないということがあるのだけれど、そうすると大丈夫だとか大丈夫じゃないとかの基準は流動していくものであるということになるだろう。人によっても違うだろうし。そうすればもしかすれば旅の前と後ではわたしという人物も違う人物になっているとも言えるのではないだろうか。

 

気分の落ち込みとか、体調の変化とかを5月中旬くらいから記録をつけているのだけれど、自分の判断だから思い込みかもしれないけれど旅の途中は確実に居やすかったし、無理をしていなかった気がする。その後はもう学校に今まで通り通っていると、旅のときならこうなのにとかそういう気持ちが出てきているのかもしれない。

 

桃岩で生きている人たちを見て、生きたい と思った。

何かを削って消費して、それが切れたと同時に一生を終えるというように、彼らは生きていけるのだろうと感じて、羨ましく思った。わたしは削っていくべきものをいまはどこかに落としてきてしまって、ただなんとなく惰性で生きているような まぁ生きているという表現が正しいとも思わないけれど、なにか熱量のようなものを見て、燃やしているのかもしれないけれど、それがわたしのはあとはきっと冷めていくだけなのだろうとなんとなく勘付いてしまって、いざ知ってみるとそれは嫌だと思った。その熱量を持っていること、それを使う場所があることが、大丈夫ということなのかな、と思ったり。

 

大丈夫大丈夫じゃないとか話していても、何が大丈夫で何が大丈夫じゃないとかもわからない。それの基準を見つけていくのは 必要ではないかもしれないとも思うけれど。基準なんてなくても 無理だと思えば大丈夫じゃないのだから、そういう風になんとなくで良いのだろうとも思う。それは自分が感じることだから、必ず基準に沿って決められることでもないだろうし。

 

まぁ 常に大丈夫でありたいと思う。疲れたのでここでおしまい。多分いまは割と大丈夫、すぐ大丈夫じゃなくなる可能性が高い気もするけれど。常に流動していく、全てのことがそうだからそれに合わせてわたしも流動していく。