脈絡

読み難い

文系とか理系とかの話

いまこの集団に居ると、「わたし文系だから」という言葉をよく聞く。

一言でいうと、それは わたしからすればこの上なく勿体ないことだと思う。

 

なんだろう、文系とか理系とかの区切りというのは。

 

計算とかが入れば理系になるのだろうか それでも論理的な思考は文章を書くときにも使う気がして居る。英文法も論理的だ。逆に文章が書けなければ、言葉がわからなければ、いくら理系と呼ばれている類のもののことが書いてあったとしても何もわからないだろう。理系文系というのに分けてしまうのは、わたしは好きにはなれない。

 

これはわたしがひとに良くする話だけれど、功績を残した数学者には語学が堪能な人が多い。たぶんこれを大抵の人は知らない様に思える。数学と聞けばそれはもろに所謂理系である にもかかわらず彼らは言葉 つまり文系のこともかなり出来る。だからわたしは何が出来るのかというのは単純に文系と理系で分けてしまうべきでは無いと思う。

 

自分を文系(理系)と思い込めばそれは自己暗示となりその人自身に制限をかける。出来るであろうことも出来なくなる可能性もある。

 

或いは免罪符の様なものなのかもしれない。わたしは文系(理系)だから、だからわたしは理系科目(文系科目)をやらなくて良いのだ とか、好きなことをやっているだけで良いのだということかもしれない。ただ単に嫌いで、やりたくないからやらないのを正当化しているのかもしれない。

 

まぁ結局のところはわからない。けれど、それだからといってやらないのはわたしは勿体ないと思う。もしかすれば他の視点から見れば楽しいかもしれない。または新しい視点を手に入れれば自分の好きなことに役立つかもしれない。

 

それを、ただ理系科目だからとか文系科目だからとかいう理由でやる前から否定するのは、それはわたしは好ましいことではないのでは と思うのである。

 

勉強が出来る様になるとか、何かに直接の役に立つとかが無いとしても それは確実に人生の教養となるしそれは人間自体を面白く豊かにしてくれるものであると、わたしはそう考えている。だから幅広く様々なことに手を出してみたりもしているんだと思う。(結局それを使わなくなったとしても、全部を忘れてしまったとしても、それを通じて考えていたこれらのことはきっと潜在意識が覚えているだろうから 考えることをせずにそのまま文系理系と受け入れてしまうよりかは得られるものも多いのではないだろうか。 ほんとうはたぶん、考えて出した結果や結論よりその考えて考えた時間や過程の方に本質があらわれているのだろうな。)

 

 

2019/3/26 追記 ()内とすこしのことばの変更