脈絡

読み難い

好きの話

 

好きっていうのはなんだかものすごく一般的で、具体性が無いから難しい。

他の動詞だったらなんか前々の文脈から結構はっきり、例えば何がしたいのかとか何か食べたい、見たいとかがわかる気がしてるけど、好きに限ってはちゃんと主語をつけないとなんのことを言っているのかわからない。

 

何がどう好きなのかを判断するのが苦手で、好きっていうのは広いから人間に対してだと恋愛的にとか友達としてとかそれには該当しないけど人間として好きとか、他にもなんかニュアンス的に違うのがある気がしていて、そんなのだから話を噛み合わせることがわたしには出来ない。度合いだけの話では決して無いと思うし。

 

人間の気持ちが難しくて、どうやって関わっていけばいいのか迷っている。好きという言葉はすごく使いやすくて、わたしもなにか良い感情を表すときによく使うし、ほぼなにも考えずに使っている人も多いと思う。

でも最近わたしは使う言葉を定義してちゃんと使いたいなって思い始めて、それから自分でしっかり説明出来るようなのを使おうと思って頑張ってた訳だ。まぁ気になったとこからだから未定義の言葉を使ってることの方が多いのだけど、それで好きっていうのが気になってしまってまぁどうしようもないし気になってしまったから考えていたのだけれど、その過程でなんだか新しく自分のことがわかった気がしたり誰かの感情のことを考えてみたり、それを考えることはわたしにとって良いことだったと思う。結果としてなにかひとつの結論が出たわけでもなくて、余計にもやもやしてしまった気もしてるけれど、多分好きという感情はもともともやっとしてるんだろうなとかそういうことを考えたりした。それでも確かに好きというのはわたしの中に存在しているだろうし、未定義だけど多分使っていくんだろうな。

 

わたしが好きな人と言っているひとは大抵は恋愛的なものではなくて、人間として好きだなぁって思っている人だと思う。でもまぁ一般的にはそういう風に使わないようで、わたしもそれはわかっているけれど敢えてそうやって使いたい。好きが曖昧なのを知ったから、そんな恋愛とか友達とかを分けて考える必要がないんじゃないかなって思って、そうやって使い始めている。今のところそれで結構しっくりきてるし、しばらくはそのままでいいかなぁと。実を言うと恋愛感情についてもわたしにはよくわからないから、こうやって曖昧に誤魔化すのが良いのかもしれない。

だけど、なんて言うのかそういうのとはちょっと違うけど好きって言葉を当ててるのがある気がして、そのタイプの好きを自分では今まで誰かに向けたことは無いと思うしそれを向けられた事も無かった(少なくとも気付いていなかった)。だけど最近、それを向けられていたことを知って、わたしに向けられたそれが本当に本当に怖くて嫌だということを知った。人によってこれについてどう感じるかは違うはずだから、わたしがなにかちょっとおかしいのかもしれないけどわたしは嫌だ。なんの感情かはわからないけれど、本能を理性にしようとして失敗したけどそれをやった本人は気付いてなくて、理性だと思ってそれに好きという名前を付けて、それをわたしに向けている感じ 偽りの感じ 嘘の感じ 綺麗事の様などうやらかなり向こうにとって都合の良いことの様な。

そういうのが、わたしが人間のことが苦手な理由とかかもしれないな。本能が悪いということでは断固としてないけれど、なんだか名前をつけて呼んでそれを正当化するような?違うかな。多分違う。自分の意識下に無い筈のものに名前を付けて、あたかも自分の自由意志でやっているように見せる様な、感じだろうか。暴走してるのに本人は気付いていないみたいな。気付いていないからわたしもきっとどこかでやっているんだろうとは思うけれど。

人間の感情のことを、わたしは永遠にわかる気がしなくて、それだから上手くやれないのかなとか、或いはそういうのを気にしてしまうからなのかなとか、こういうことを考える時点でもう彼らと同じ場所で彼らと会話することすら出来ないんだろうなとか、そういうことを考える面倒な生き物がわたしです。

 

好きというのはわたしにはもしかしたらわかっているかもしれないけれど、わかっているということをわかっていないのかもしれないなぁとか思う。そうしたら多分結局はわかってないということになるんだろうけれど。わかるべきだろうか、それともずっと知らないままで過ごしている方が実はわたしにとって良いことなのかもしれない。自然にいつのまにか、わかる様なことがあればそれがいちばん良いのかな そんな気がしている。